麻雀のお話

連載「これが麻雀だ」(第五回)

2018年05月23日

北家のチー

北家に座った時は、親に連荘させないことはもちろん、チーもさせないぐらいの用心が必要です。

ポンなどはもってのほか、ポンしないためにあとで困ったら、その対子を逆に切って捨ててもよいのです。

そのくらいですから、親の上にいてチーすることは、それだけ親に有利な自摸というものを与えるばかりでなく、自分自身も手を詰める結果となり、あげくのはては好牌を下の親におろさなければならない破目になるものです。

北家としては、ふだんよりも、いっそう門前清で戦局を進めなくてはなりません。

また下家が親でなくとも、大役の気配のあるときは大体同様に、チーなど避けるべきです。

南家のチー 

南家としては親をおとすため門前清をギセイにしても、チーするかもしれません。

しかしこれもほどほどにしないと、親にこちらの手のうちをみすかされ、かえって親に有利な戦局を進められるおそれがあります。やはり一副露、一しゃん聴ぐらいの気持ちで、チーするのがよいでしょう。

 大役の気配のある人の下家にいる場合も同じです。このときの方が、同じ傾向の不要牌が、つづいて出る可能性が多いのです。これまたみだりにチーしないで、戦局全体に眼を向け、これぞと思うときにチーするだけで、自分の安い手と大役と勝負することのないよう、気をつけるべきです。

三四万・六七万と面子のあるとき

こんなときは、二・五・八万と出やすい筋ではあるが、二度欲しいわけです。

そして万が三枚、万が三枚すでに出ていて、二しゃん聴だとします。最後の万が出たので、チーするわけですが、これとても、必ずしもチーしないで、二しゃん聴ならむしろ、いくらでも手牌の変化ができるのです。

自摸れなかったら、三四万の面子をこわし、他の面子に切換えることを考えてもよいくらいです。

カムフラージュのチー

配牌がすごく悪い手で、ただ漫然と自摸っているとその捨牌から、たいした手ではないと見くびられるところから、それを心配し、全く聴牌などできそうもないのに、チーする人があります。

このような人は、それなりに信念をもって、実行し、相手を眩惑し、自分は最後まで手をバラバラにしているようです。そして、うまいことに自分は放銃せず、他家同志を戦わせて局面を収拾しているのです。

もちろんその功罪はいちがいにいえないのですが、私はこういう作戦をあまりとりません。やはり門前清を守る方が得策とします。

いつもいうことですが、悪い手でも、自摸いかんによっては、見違えるような手にもなるのです。チー・ポンして手をさらし、また手を詰め、和りを放棄してまで、一人相撲をとるのはどうかと思います。

他家同志打ち合い、チー・ポンを応酬させても、自分の悪い手は公開したくありません。しかし、たとえかくしてもけい眼の人が見れば、そのくらいのトリックは見ぬかれてしまうものです。

とにかく、チー・ポンせず、門前清のかくれみのに入り、頃あいをみて、下家に好牌をおろしてチーさせ聴牌を早め、下家と他家と勝負してもらうようにします。もちろん下家の手の大きさを念頭において・・・。

二五八はチーしない

 一・九牌は、そのさきにもないので、行きどまりになっています。そのため一・九牌は面子を作るチャンスが少なく、不要牌として、聴牌期前に大部分が捨てられてしまいます。

 その点、二・八牌はそれほど早めには捨てられません。三・七牌、四・六牌は面子完成に大事な牌として、出にくいので、二・八牌は聴牌期にちょうど出てくるものです。

 ですから、上家から二五八の筋牌がおりてきても、チーせずにおき、他の面子の方を自摸で完成させ、聴牌は二五八牌という方が、和りやすいと思われます。

清一色とチー

 連盟麻雀での清一色は、その飜からいって、インフレルールの七飜ぐらいに相当するものです。チャンス至らば一路これに進むのも連盟麻雀の醍醐味であります。

 配牌七・八枚から、清一色計画に進むのですが、なんといっても同種牌の数の不足から、面子が必要な五組そろうことは稀です。

 チーはひかえて、門前清でいって面子をふやすことが最上の方策と思われます。

 たとえ、早期にペン張などが出てきても、チーを見送り、その面子の完成はあとまわしにしても、必要な面子の数だけこしらえるようにすべきです。

 自摸にたよっていれば、自摸いかんによっては、ペン張・カン張思いのままくることもあります。最後の聴牌がペン張になっても、和れるときは案外和れるものです。

 一しゃん聴ごろで、ペン張が出たのなら、一応チーして聴牌へ持ち込むのもよいでしょう。清一色は警戒されないよう、せいぜい一副露ぐらいにとどめ、自摸に専念しなければ、できるものではありません。

 よく三副露してまで、清一色を狙う人があります。おそらく驚かしながら、敵を降ろさせ、あとから聴牌というのでしょうが、放銃の危険性もあるので、とるべき策ではないでしょう

 

第三章

ポンの戦術 

 連盟麻雀では、案外、数牌のポンをします。別に対々和を狙ってのポンでないことはもちろんで、やはりチーと同じ目的で、聴牌への最短距離に進むために用いられるものです。

 

ポンのいろいろ  

飜牌のポン

飜牌は、インフレルールでは一です。だから飜牌はそうとう軽視され、最初の一枚などなかなかポンしない習慣を身につけていることでしょう。飜牌は、連盟麻雀でも同じ一飜ですが、この一飜はインフレルールの二飜にもあたり、場合によってはそれ以上にもあたるので、それこそ三元牌を一つポンしたら、次の三元牌はよほどでないと出ないのが本筋です。

ですから飜牌はポンしてよいのですが、やはりチーの時と同様、和る見込みのない手ではたとえ飜牌があっても、ポンは一応見のがす手があります。そのへんのコツは、インフレルールを経験した人は如才なく打牌すると思います。

 つぎに、連盟では、七対子の役がないので、対子の多い場合は、ある程度ポンして手牌を整理していかねばならないわけです。

 同じポンでも、北家とか、南家とか、または大役の人の後先に座っていることでポンすることもあるし、しないこともあります。

数牌のポン

手牌に五五六万と持っていて、一しゃん聴のとき、対面から万がでたのでポンすれば、門前清はこわれるが聴牌という場合、戦前の麻雀や、中国の麻雀は聴牌第一主義のため、ポンしたものです。

 現在では万をつづいて捨て、聴牌をおくらせても門前清を守り五六万の面子を順子に育てて聴牌に持込み、数牌、とくに中張牌のポンはしないものです。

 それでも、独立した数牌の対子なら、ほかに対子が多いときなど、ポンして聴牌へ進みますが、数牌を三枚もさらすということは、自分の手牌に関係ないようでいて、そのまわりの牌の模様や、順子の工合まで、他家に推理の材料を与えるので、全体として不利は免れません。

 その意味から無造作にポンすることはさけなくてはなりません。上手になればなるほど、一つのポンが及ぼす影響を深く考え、打牌しているのです。

前例の万のように、万は現在安全牌であっても、万は危険牌かもしれず、ポンして聴牌したとたんに、放銃してしまう例が多く、うかつなポンはやらないほうがよい。順子形式で聴牌に進み、自摸を期待したいところです。

北家のポン

連盟麻雀では、親の一飜のウエートが高く、インフレル-ルの二飜以上に値するものです。したがって北家としては、軽々しく親の頭でポンすることは絶対禁物です。

 北家がポンすれば、それだけ親の自摸の機会がふえます。抜かされた他家は少なくとも親の連荘を阻止しようとしての協力者なのですから、それらの人の自摸の機会を奪うということは、全体のバランスからとるべきでありません。もしもこのようなポンを軽々しく行う人があるとしたら、その人の技倆は最低と軽蔑され、技術的に悪手として敬遠されます。

 ポンをしなくとも、場合によっては自摸によっては自摸により、暗刻になる可能性もあります。またたとえ、暗刻にならず、聴牌に差しつかえるのなら、逆にその対子を切っていってもよいわけです。

親に対しては安全牌であるし、しかも上家としての打牌が、親に与える心理的影響は計りしれないものがあるのです。

 飜牌のポンでも、場合によっては思いとどまり、ようやく二枚目をポンすることも、あるいは、これさえ見送ることがあります。もちろん二飜以上の手のときは、この限りではありません。それでもできたら最初のポンは、見送るぐらいの余裕がほしいものです。

連盟麻雀とインフレ麻雀のポン

 とにかく親の連荘は、他家にとっては大変な痛手となるものですから、子の三人協力しての行動が大切、バラバラの動きはしないよう注意します。暗黙のうちに統制されたこの打牌が、じつに連盟の真随なのです。

 インフレル-ルではこの点、親というものにさほど恐怖を感じなくともすむようにできています。流しても親の連荘があるのですから、押さえてもそれほどの甲斐はないのです。押さえるとか、暗黙のうちに共同戦線をはるなど、連盟麻雀の真随はみられるべくもなく、みんなおもい思い、勝手にガメリ、勝手に和っています。

 連盟では、連盟のできた昭和の初めから “親の頭でポンするやつは、犬にけられて死んでしまえと、俗語でいいつたえています。親の頭でポンするときは、自分で絶対に和る確信の持てるとき以外、ないのです。

 まして二回も、三回も連荘している親の頭で、親が捨牌した老頭牌(の牌)をカンするなどは、連盟麻雀とはいえません。かならずこの親はつづいて、連荘し、得点は大きく開いていきます。

 勝負を争ってはいるのですが、四者の得点の差の小さければ小さいほど、理想的な麻雀であって、こんなときの技をきそう面白さは、当の四人がいっそう身にしみてわかるものです。

 もっともその意味で、日本麻雀連盟の順位点の存在価値があるのです。