麻雀のお話

『麻雀 今昔』     日本麻雀連盟前理事長・石本 洋一   

2018年01月19日

 
日本に麻雀が初めて渡来したのは今から98年前の1908年(明治41年)、東京大学を卒業して上海の師範堂(日本の師範学校)の日本語・英語教師だった名川彦作さんが文部省よりの辞令で、樺太大泊中学校の教頭に赴任する際、上海で購入した麻雀牌で大泊の人々に教えたというのが定説です。

この麻雀牌は、千葉県夷隅市の世界で唯一の麻雀博物館に展示されています。

大正時代半ば、婦人画報・サンデー毎日という月刊誌に「支那カルタ麻雀」という絵解きで遊び方が掲載されました。

日本麻雀の第1期ブームは大正末期から昭和10年の10年間です。

大正13年、東京四谷に東京麻雀会という麻雀クラブが誕生した。

1日20銭払えば麻雀を楽しめる会で現在の麻雀店の開祖とも言えます。

その頃、麻雀界に関係する人は麻雀ネームを使っておりました。

主催者は麻雀ネーム空閑緑(クガミドリ)。

麻雀卓5卓程度の場所ですが、麻雀ネーム李天公(リテンコウ)・天忠定(テンチュテイ)の両氏が師範格でいたそうです。

その後、東京では三田クラブ・本郷会・実情団等のクラブが誕生しました。

一方、鎌倉でも鎌倉派とも言える麻雀会が誕生しておりました。

昭和の初めの鎌倉には海浜ホテルと言うのが唯一のホテルで鎌倉在住の文士が集まって、社交場となっていました。

バーも食堂もあります。

ある時、支配人が外国人の忘れ物だと言って麻雀牌を見せました。

その場にいた退役陸軍中尉の長尾さんと言う人が「俺は麻雀を知っている」と言って遊び方を教えました。

文士たちは面白がって集まって来て久米正雄・里見淳さんなどが夢中になったそうです。

東京の上海公司という麻雀牌輸入業者から牌を買って卓数も増えたそうです。

次いで有名なのはプラタンの集まりです。

大正12年関東大震災によって銀座で焼け出された画家の松山省三さんは神楽坂でプラタンという洋食屋を始めました。

顔の広い人で文士、画家、映画関係者、ジャーナリストが集まるようになり、麻雀卓も2組持ち込まれ松山さんの個室は連日麻雀をやる人が押しよせてプラタンは麻雀クラブさながらだったそうです。

そんな中で中国帰りの鈴木某氏が林茂光(リンモッコウ)という麻雀ネームで、「麻雀」という本を発刊しました。

昭和2年です。

表紙が赤だったので、赤本ともてはやされて5万部売れたともあります。

赤本が出るまでは鎌倉派・プラタン・東京の各界とも、おのおの勝手なルールでやっていたようです。

昭和3年(1928年)秋、大阪で大阪新聞主催で日本初めての麻雀大会が開催され400人が集まったと報じられ、東京でも負けてたまるかと、昭和4年(1929年)春に日比谷にあった国民新聞社の講堂で2日間に渡って麻雀大会が開かれ600人が集まったとされています。

そんな中で赤本を中心とするルールの統一、マナーの統制、力量による段位の発行を目指して各団体が大同団結したのが昭和4年10月12日(1929年の秋)日本麻雀連盟の誕生でした。

連盟の顔となる総裁に文豪で文芸春秋社社長の菊池寛氏が就任。

菊池さんを誘い出したのは第一高等学校で同級生で文士の久米正雄さんでした。

菊池さんの言葉で残っているのは
「俺は代議士・大臣ぐらいはなれるだろうが日本銀行総裁にはなれない。
総裁と言う言葉に惚れた。」
とあります。

副総裁は寺木定芳という歯科医で泉鏡花の研究家でも有名な方で、後に理事長、総裁になられており現在逗子に永眠されておられます。

菊池総裁の誕生により昭和5年から昭和8年にかけて麻雀春秋という麻雀専門誌が文芸春秋社から発行されました。

私が理事長になってから、連盟保管の麻雀界の歴史とも言える麻雀春秋の大部分を麻雀博物館に寄贈しました。

菊池氏がらみの何冊かは菊池さん生誕の地、高松市にある「菊池寛記念館」に届けて感謝されました。

勿論、その頃のルールは中国より渡来したときのルールです。

アルシーアルルールとは、中国本来の述語で現すと20和底(アルシーフーテイ)。

この和底は副底とも書き、麻雀の基礎点が20点ということで我が国に伝わるとアルシーアルルールとなりました。

昭和13年から20年の7年間は、麻雀弾圧の時代でした。

昭和20年敗戦、麻雀は復活、昭和20年代はアルシーアルルールのみでした。

昭和33年頃(1958年)より報知新聞社が制定したリーチルールが普及、初めは連盟ルールとリーチルールが付け加えられたのですが、遊びは関西の人々が早く、リーチばかりでなく場に2飜がついており単純に連盟ルールがあがれば240点が1000点になる。

裏をめくって裏ドラがあれば2000点になる。

というインフレルールが普及。

持点がなくなればドボンといってゲーム終了というのが現状です。

麻雀が第3期ブームになった昭和40年(1965年)より20年間週間大衆を発行していた双葉社が主催して麻雀名人戦が開催されました。

各界、芸能、小説家、スポーツ、漫画家等の強豪に三つの麻雀団体の代表3人を加えて32人を一堂に集める。

場に2飜ついてドラの一切ないリーチルール。

半荘2回同じメンバーで対戦。

得点順で上位2人が勝ち上がる。

従って32人が16人になり、8人になり4人になる。

1日6戦して6連勝すれば4人に残れる。

改めて現在の名人を加えて5人の総当りで2日間8戦トータル12戦の結果、新名人が誕生する。

雑誌はこの牌譜と共に試合状況を報告するから実質は夏の3日間で終わったのに9月から1月迄読者をハラハラさせる。

優勝賞金は、40年から5年間は30万、45年から50万、50年から80万になったと聞いています。

歌謡曲の一節に昔の名前で出ていますというフレーズがありますが、麻雀界もこれ以外大きなタイトル戦がありませんから、第何期名人という称号は業界内部で今も生きております。

皆様がご存知かどうかわかりませんが、私の記憶にある名人位は次の人でした。

  第1期  青山 敬(麻雀新撰組)
  第2期  大隈 秀夫(社会評論家)
  第3期  古川 凱章(麻雀評論家)
  第4期  石本 洋一(連盟理事)
  第5期  福地 泡介(漫画家)
  第6期  花登 筐(劇作家)

私のように1回の出場で運良く栄冠をとった者もいれば五味康祐・阿佐田哲也・畑正憲の皆さんの様、5、6回連続出場でも栄冠に届かない人もおりました。

麻雀の起源は400年前とも言われますが、現在の麻雀牌136枚に加えて花牌8枚に整理、それまで星だ花だと30枚を超える花牌を1種類にして近代麻雀牌の創始者は中国寧波の陳魚門という人だという認識が中国・日本にあり第1回陳魚門杯が2001年6月中国杭州の寧波市で開催され、連盟より24人参加、日中合わせて100人を越える大会もありました。

以来、私は連盟ルールは第1ルール、第二ルールは中国が発表した国際ルールだと明言。

会員の皆様も努力して頂いており、国内の麻雀団体では最高のレベルと人数で競技に参加しております。

毎年2月は名古屋で国際ルールの大会を連盟で主催し、多くの人々を集めております。

中国では2008年のオリンピックに公開競技で麻雀をやろうと考え、国家体育局が中心になって国内より100人の人々を集め、オリンピック用に公式国際ルールを制定。

これを中・日・英・独・仏5カ国語にまとめ各国大使館を通じて普及に努力しました。

中国大使館経由で日本の麻雀界にも協力が伝えられ、2000年に日本麻雀競技組織委員会が設立され、対外といっても対中に接することになりました。

会長に評論家・麻雀第2期名人・麻雀博物館館長の大隈秀夫さんを持ってきて、4人の常務理事。

  日本麻雀連盟理事長  石本 洋一
  日本健康麻将協会会長  田邊 恵三
  全国麻雀業組合総連合会理事長  木下 裕章
  竹書房会長・麻雀博物館理事長  野口 恭一郎

計5人が2ヶ月に1回会合を開いて、国際ルールの普及、対中国、対ヨーロッパ、国内問題を協議しております。

対中国では私も北京・上海・西安・寧波・広州に会員を連れて行き、観光と中国との国際ルールの大会に出ております。

ヨーロッパでもヨーロッパ麻雀連盟が出来て昨年はオランダで、来年はドイツで200名が集まり国際ルール選手権大会を開催して参ります。

今年に入っての話ですが、中国よりの使者が来て私共と会い、オリンピック開催は無理だった。

2008年2月に北京で世界麻将(中国では麻雀を変えました)大会を実施したい。

ついては世界麻将連盟を設立したい。

会長は中国側から出す。

副会長は日本より一人、ヨーロッパより一人。

理事を世界各国より選出して世界麻将大会を2年毎に世界中でやりたい、との申し入れを受けており、日本より大隈会長を推薦決定しております。

世界中で麻雀をやる国は43ヶ国あるとされています。

2000年から2003年迄の中国の中日大使は武大偉さんでした。

帰国して第二外務次官となり6カ国協議の議長などで苦労されておりますが、日本語はペラペラの麻雀大好き人間で私も招待されて4、5回中国大使館内で国際ルールの麻雀をやりました。

私共で自動卓2台大使館に寄贈しておりますので使用していると思いますが、国際ルールは中国の威厳をかけて世界中に普及されています。

2009年連盟誕生80周年にあたりますので、タイムスに掲載しようと考え、麻雀の歴史を2006年秋に書きましたが機会がなく今回私版の形で書きました。

会員の皆様にお読みいただければありがたいと思います。


    日本麻雀連盟前理事長・石本 洋一(2008年 秋)